どうして人は喋るのだろう。
思想とか観念的なこととか、
そういう話を、口に出して言葉にすると
どうしてこんなにも薄っぺらくなるのだろう。
伝わらない。届かない。
それがもどかしくて
自己嫌悪に陥って
頭の中の話をするのは苦手です。
わたしはおしゃべりだけど、
たわいない、くだらない話をするのは大好きだけど、
頭の中の話、具体的でない話。抽象的・観念的な話。
どうせ伝わらないと思っているし、伝えたいわけでもない。
だからあまり、話したくない。
友だちなどと、少しでも込み入った話をすると、
ああ、結局1ミリも届かなかっただろうな、他人の観念なんて伝わらないよな、それなのにそれなのに、やっぱり喋りすぎたな。
と思って、だいたい後悔する。
結局は完全な理解なんてあり得ないし、共感だって自分のいいように解釈しているだけだ。
伝わらないのに、どうして人は喋るのだろう?
伝わらないから、喋り続けるのか。
そうか。無茶な話だな。
とりあえず問題は、
誰かが、「ただ聞いてほしい話」をした時に、
うんうん、そうだね、
って、共感のような適度な相槌を打って本当に「ただ聞ける」ひとがどれだけいるのか?ということ
人はすぐに、自分と比べて照らし合わせて、「私はね」って話し始める。
それが大切なときもあるだろう。
でも。
やわらかくしずかに、ひとの話をただそっと、聞けるひとになりたいのです。
言葉というのは難しい。
ただ、口から出す言葉というのは外に向かって放出する自分の断片みたいなもので、
わたしはどれだけいい子ぶってると思われてもやわらかくあたたかい人でありたいと思うので、
なるべくやわらかくやさしくあたたかく、そういうふうに言葉を発したい。
だれかに傷をつけるような、痛みを伴うような言葉はなるべく発したくない。
それは裏を返せば自分が傷つきたくないからで、自分はとても脆いのだろうなと、思う。
ふう。
今日は午後から選択授業。
「構成(かたち・表現)」の授業を受けつつ、今週の土日はいろいろと人に会う予定なのであたらしく名刺を作っていた。
そして基礎造形クラスが企画するワークショップのノベルティのためのイラストをすこし描いて、クラスメイトと居酒屋とカフェに行った。
空気がつめたかった
こちらに来てはじめてオリオン座を見て感動して、おもわずわあと声をあげた
冬は空が澄んでいて良い
ひとの顔色を伺いがちなわたしは、今年の目標に「最強に生意気」を掲げている
でも、生意気ってどんなのだろうと思って
辞書で調べようとして
ああこの時点でただの真面目ちゃんだと思って
やめて辞書を踏んづけてやった
ふん。生意気でしょう?
おやすみなさい。
ジーザス。

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