1年生の授業がすべておわった
1年間でいちばん多く感じたことは悔しい、そんつぎ情けない、そんで、羨ましい、ね。
やあねえ。
ふとたまに、ぽつぽつといろいろなことが蘇ったり、意識的に思い出したりしてみて。
1Cのみんなとすごした日々と、1Cのみんなのことがすごく好きだなって思った。ありがとう。
JELLY BEANS
SAYAKA(MONCHI) KUWASAWA DESIGN SCHOOL (TOKYO SHIBUYA)
2012/02/05
2012/01/30
WHY HOW WHAT
背景を変えた
もっとブログを書けたらいいなと思うのだけれど
どうしてもわたしだけのラクガキ帳に思いを書き留めるほうが好きだ
小心者だからだれかを不快にさせたらどうしようとかどう思われるだろうとか
どうしたってそわそわするのね
ネットだもん。
いつだってそういう可能性を孕んでいる
だから、ね。
それにおしゃべりすぎるのってちっともセクシーじゃない
言葉になんてしないけど
許せないことも嫌いなものも山ほどある
ばかみたい
ジーザス。
もっとブログを書けたらいいなと思うのだけれど
どうしてもわたしだけのラクガキ帳に思いを書き留めるほうが好きだ
小心者だからだれかを不快にさせたらどうしようとかどう思われるだろうとか
どうしたってそわそわするのね
ネットだもん。
いつだってそういう可能性を孕んでいる
だから、ね。
それにおしゃべりすぎるのってちっともセクシーじゃない
言葉になんてしないけど
許せないことも嫌いなものも山ほどある
ばかみたい
ジーザス。
2011/10/31
やんちゃなおとな。

日記。
10/29(土)
学校で野菜の写真撮影をした。
カッターマットの上で野菜を切った。
野菜のフォルムや断面を改めてまじまじと見つめてみたら可愛くて感動した。
頭の中でこちゃこちゃ悩むより手を動かすべきだって本当に思った。
実際にやってみて見えてくることは大きい
たーちゃんと秋葉原へ行った。
ギャラリー3331は中学校をそのまま使っていて水道や下駄箱や階段やその横の大きな鏡などが懐かしくて興奮した。
廊下を走って楽しかった。
やはり、つくりたくて堪らなくてものをつくっている人とは土俵というか、根本が違うと感じた。
秋葉原はアブノーマルな街なのかも知れないけど、みんな好きで堪らないものがあって元気で良いと思った。
つぎはゆっくり、可愛い電子部品などを探しに行く。
学校に戻って文化祭のファッションショー部署の各係の今期・次期ヘッド(リーダー)で反省会をした。
今年の文化祭はとてもつまらない思いをしたけれど、どうせやるなら全力で良いものつくりたい。
来年は出来る。ぜったいに。
みんなで頑張る!
カシワグラミチと原宿のスタジオへ。
桑沢卒業生の先輩に誘われた、JAZZライブパーティー!
スタジオが可愛くてお洒落で、
JAZZがすきなので心地好かった。
来ている大人たちも落ち着いていてよかった。
またもやいろいろな出会いがあってとても楽しかった。
作品を売るイベントにも参加出来ることになって、有り難い。
そして移動してご飯を食べさせてもらって、
ライブハウスのDJイベントに連れて行ってもらった。
いろんなひととお喋りしたり呑んだり踊ったりした。
音楽は主に60〜70sの海外パワーポップと
90s〜最近のジャパニーズポップだった
素人目に見ても「DJうっまいなー!!」って思う人に初めて出会った。
その道の一流ってきっと、なにも知らない人にもはっとさせる、伝える力のあるもの
ミラーボールもすごく綺麗だった。
光がゆらゆらして水族館みたいだった。
すっごい楽しくて、すっごい気持ちよかった!
(お金かからなかったし ひそっ)
わたしが出会う社会人は、本気で遊ぶことを知ってる大人たちばかりだ。
そういうひとたちをみていて、大人になるのも悪くないな、
歳を重ねていくのって楽しいかもな、って思った。
そしてこんなにたくさん愉快な大人たちがいるのなら、地球はまだ滅亡しない。大丈夫だ
と、なんだか変に安心した。
わたしの中の地球滅亡説、崩壊。
ヤッタネ!
人生アッパレ。
では、また。
ジーザス!
映画「たまたま」

「嘘みたいな確率で、すべては成り立っている」
ありがとうとかうれしいとか、
かなしいとか好きだとか大切だとか。
恥ずかしがらずに意地を張らずに、
ぜんぶ素直に言えるひとになろう。
当たり前なことなんてひとつもない
嘘みたいな偶然。
アイルランドの風景はとってもうつくしくて、
おうちと人々がものすごく可愛かったです。
この時代にこの国に生まれこの土地に上京しこの映画を「たまたま」、大切なひとと観れたことを幸福に想います。
数え切れない奇跡のような偶然に心からの敬意を。
ジーザス!
2011/10/27
言葉にする、ということ
どうして人は喋るのだろう。
思想とか観念的なこととか、
そういう話を、口に出して言葉にすると
どうしてこんなにも薄っぺらくなるのだろう。
伝わらない。届かない。
それがもどかしくて
自己嫌悪に陥って
頭の中の話をするのは苦手です。
わたしはおしゃべりだけど、
たわいない、くだらない話をするのは大好きだけど、
頭の中の話、具体的でない話。抽象的・観念的な話。
どうせ伝わらないと思っているし、伝えたいわけでもない。
だからあまり、話したくない。
友だちなどと、少しでも込み入った話をすると、
ああ、結局1ミリも届かなかっただろうな、他人の観念なんて伝わらないよな、それなのにそれなのに、やっぱり喋りすぎたな。
と思って、だいたい後悔する。
結局は完全な理解なんてあり得ないし、共感だって自分のいいように解釈しているだけだ。
伝わらないのに、どうして人は喋るのだろう?
伝わらないから、喋り続けるのか。
そうか。無茶な話だな。
とりあえず問題は、
誰かが、「ただ聞いてほしい話」をした時に、
うんうん、そうだね、
って、共感のような適度な相槌を打って本当に「ただ聞ける」ひとがどれだけいるのか?ということ
人はすぐに、自分と比べて照らし合わせて、「私はね」って話し始める。
それが大切なときもあるだろう。
でも。
やわらかくしずかに、ひとの話をただそっと、聞けるひとになりたいのです。
言葉というのは難しい。
ただ、口から出す言葉というのは外に向かって放出する自分の断片みたいなもので、
わたしはどれだけいい子ぶってると思われてもやわらかくあたたかい人でありたいと思うので、
なるべくやわらかくやさしくあたたかく、そういうふうに言葉を発したい。
だれかに傷をつけるような、痛みを伴うような言葉はなるべく発したくない。
それは裏を返せば自分が傷つきたくないからで、自分はとても脆いのだろうなと、思う。
ふう。
今日は午後から選択授業。
「構成(かたち・表現)」の授業を受けつつ、今週の土日はいろいろと人に会う予定なのであたらしく名刺を作っていた。
そして基礎造形クラスが企画するワークショップのノベルティのためのイラストをすこし描いて、クラスメイトと居酒屋とカフェに行った。
空気がつめたかった
こちらに来てはじめてオリオン座を見て感動して、おもわずわあと声をあげた
冬は空が澄んでいて良い
ひとの顔色を伺いがちなわたしは、今年の目標に「最強に生意気」を掲げている
でも、生意気ってどんなのだろうと思って
辞書で調べようとして
ああこの時点でただの真面目ちゃんだと思って
やめて辞書を踏んづけてやった
ふん。生意気でしょう?
おやすみなさい。
ジーザス。
登録:
投稿 (Atom)
